FC2ブログ

2-35

Category第2章 解れゆくもの
 4
エレベーターが1階ロビーに着くと、類はあたしの腰を支えながら歩きだした。
数歩歩いたところで、あたしは意志を持ってその腕を振り払う。
「…つくし?」
「レストルームに行きたい…」
ふらつく足を正し、努めて冷静に目的地を目指す。
あたしは類を振り返らなかった。そして、彼もあたしを追わなかった。
こみ上げてくるのは嘔気ではなく、…声なき嗚咽だった。

レストルームには数人の先客がいたが、空いていた個室に飛び込んで外界と自分を隔絶してしまうと、もう涙をこらえることができなかった。
「…うっ……うぅっ…」
ドアを背にして立ったまま、あたしは声を殺しきれずに泣く。
涙はぱたぱたと顎先から落ち、ドレスの裾を濡らした。


―あたしを信じて。
―類を想っている気持ちを信じて。

その願いをあっけなく手折たおられ、あたしは、初めて、類に対する強い怒りを感じていた。自分でも驚くほどの激しさで。

―あたしの何が足りなくて、あなたにそう思わせてしまうの?
―いつまで、どんなふうに頑張れば、あなたの信頼を手にすることができる?


…帰りたくない。
マンションを飛び出したあの日のように、唐突にその思いがこみ上げてくる。
このまま類の元に戻れば、同じことを何度も繰り返してしまう気がする。
類の意向に沿いたいと思いながらも心の奥底では反発し、それを無理やり抑え込むことによって自分を自分らしく保てないでいる。


―あたしは、こんな人間だった?
―言いたいこともはっきり言えないような、ただ耐え忍ぶだけの女だった?
違う、そうじゃない、と心のどこかで叫ぶ声がする。彼を失うことを恐れすぎて、あたしは大事なことを見落としているんじゃないだろうか。 


―離れよう。類から。あたし達は距離を置くべきだ。
初めて、その必要をはっきりと認識する。
今の関係を続けていくことは、もうできそうにない。

―そもそもが、誤りだった。
あたしは、いまこそ、素直に認めようと思う。
あの夜、類を受け入れたことは間違いだった、と。
自らの過ちを認めるのはとても苦しいことだけれど、彼との関係を再構築するにあたって、あたしはもっと慎重であるべきだったと今ならば思う。


彼が過去を失ったのなら、その記憶が戻ることを前提にはせず、最初からすべてをやり直すべきだった。
体の欲求を満たせば、心の空虚を埋めることができると思ったのは間違いだった。
心の絆が前提にあってこそ、抱き合うことには意味があるのに。幾度となく肌を重ねても満たされないのは、彼の中にあたしへの情愛を確信できないからだ。
あたしは一番肝心なところでその判断を見誤ってしまったがために、長く違和感を抱き続けることになってしまったのだ…。


ようやく自分の思考がクリアになり、胸の内のわだかまりがするすると解けていくようだった。
あたしは涙を拭き、ある決心をして携帯電話を取り出す。
いつしか周囲からは人の気配は絶えていた。



呼び出し音が鳴る。
1、2、…3回。

「牧野か? どうした?」
相手はあたしからの連絡が意外だったのだろう。
その声音に驚きを含ませて短く用件を問うた。
「お願いがあるの…」
「…なんだよ?」
「今、1階ロビーのエレベーターホール近くのレストルームにいるの。類はその外で待ってる」
あたしは息を吸い込むと、思い切ってこう依頼した。
「お願いします。あたしをここから連れ出して。…類には、見つかりたくないの」
「お前…」
「今は何も訊かないで…お願いだから…」
「……分かった。すぐ何とかしてやるから、ちょっと待ってろ」
あたしは感謝を告げて通話を終え、彼が行動を起こしてくれるまでを静かに待った。


ふいに携帯電話が鳴る。
類からだった。
あたしはわずかに躊躇したが、それに応答した。
「…もしもし」
「ずいぶん長いけど、まだ具合悪いの?」
「ごめんなさい。吐き気がひどくて…。もう少しだけ待って…」
自分でも本当に無機的な声が出たと思う。
あたしは類の返答を待たずに、そのまま通話を切った。


それから、すぐ後のことだった。
誰かがレストルームに入ってくる音がした。足音から察するに、人数は二人。
「牧野さん? いらっしゃいますか?」
控えめに問いかけられた声に応えるより早く、あたしは個室を飛び出していた。
「…あなたが、牧野さん?」
先ほどパーティー会場で見かけた、和装の麗人があたしの姿を見て微笑む。
切れ長の一重の瞳がひどく美しい。
「総二郎さんから伺ってきました。…ずいぶんお加減が悪そうね?」
「牧野です。お手数をおかけして、本当に申し訳ございません」
あたしは深く頭を下げる。それだけのことでも、ひどいめまいを覚える。

西門さんの従姉だというその女性は、大宮史月おおみやふづきと名乗った。
どこか彼の面差しに似て、凛とした表情のままにあたしを見据えている。
彼女の後ろに付き従ってきた女性が、黒いコートとマフラーを準備し、あたしがそれらを身に纏うのを手伝ってくれる。鮮やかなブルーのドレスも、ベージュのボレロも、すべてが黒で覆いつくされていく…。
「彼女があなたを車まで案内します。途中までは私も同行します。…行きましょうか」
「あの、類は…」
大宮さんは嫣然えんぜんと笑む。
「花沢さんなら、今頃誰かに呼び出されている頃かしら? …あぁ、携帯電話は切っておいてくださいね」




ブログ村のランキングに参加しています。ポチッとお願いします☆

いつも拍手をありがとうございます! ここでつくしが頼ったのは総二郎でした…。
関連記事
スポンサーサイト



4 Comments

-  

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

2018/09/03 (Mon) 22:16 | REPLY |   

-  

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

2018/09/03 (Mon) 23:08 | REPLY |   
nainai

nainai  

ま様

こんばんは。さっそくのコメントありがとうございます。

つくしはついに類との別離を決意します。ここで彼の元に戻ってしまっては、これからも何度も苦しい夜を迎えることになると、ようやく悟ったのです。自分の判断の誤りを認めることはつらく苦しいことですが、つくしは状況打開のために動き始めます。
彼女の奮闘を見守ってやってくださいね。

この局面で現れた新キャラ、史月さん。最初は名をつけていなかったのですが、その後の展開でやっぱり名前が必要になりました。頭の片隅にチラッと覚えていてもらえると嬉しいです。

2018/09/03 (Mon) 23:22 | REPLY |   
nainai

nainai  

み様

こんばんは。さっそくのコメントありがとうございます。

もうね、決定打だったんですよね…。
別離という結論にたどり着くまで、つくしは類からまったく愛を感じていないわけでもないんですね。体調を気遣ってくれる様子や、甘えてくる様子も折々にあり、そこに“自分は愛されているかも、必要とされているかも”と感じてもいたのです。前日には、夢を諦めることまで心に決め、ようやく二人で前に進もう…と思った矢先のこのやり取り。

プロローグの瞬間までもう少しです。つくしにはつくしの想いがありますが、類には類の想いもあります。それについては第3章で明らかにしていこうと思っています。どうぞ、お楽しみに…<(_ _)>

2018/09/03 (Mon) 23:38 | REPLY |   

Post a comment